山縣良和展「ここに いても いい リトゥンアフターワーズ」
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キュレーター、東京藝術大学准教授。1974年奈良県奈良市生まれ。武蔵野美術大学大学院で絵画を学び、海外子女教育振興財団(泰日協会学校/bangkok, Thailand)、武蔵野美術大学パリ賞受賞により仏滞在研究(Cité Internationale des Arts, Paris)、原美術館学芸部アシスタントを経て、2005年に東北芸術工科大学(山形市)へ。2019年3月まで同大学教授・主任学芸員を務める。
展覧会やアートフェスのキュレーションの他、地域振興や社会貢献のためのCSRや教育プログラム、出版活動などをプロデュース。企業やNPO、行政と公共施設、教育機関のパートナーとして、クリエイターと地域資源・ものづくりの技術・伝統文化とのコラボレーションを推進している。
東北芸術工科大学在職中に「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」を創設。国の重要文化財 文翔館を会場に〈山の3部作/2014-2016-2018〉をディレクションし18万人を動員した。東日本大震災発生後は東北復興支援機構(TRSO)ディレクターとして、石巻市や南相馬市でアーティストやデザイナーによる支援プロジェクトを牽引(2011~2017)。その他、山形では建築家・馬場正尊らのエリア・リノベーションに参加し、アート複合ビル「とんがりビル」の企画展をキュレーションした(2015~2018)。東根市公益文化施設「まなびあテラス」芸術監督(2016~2021)、クリエイティブ集団akaoniとのユニット「kanabou」名義のアートディレクターとしても活動中。
国内外を巡回した主な展覧会として「石川直樹/異人 the stranger」、「向井山朋子/夜想曲 Nocturne」、「CHO DUCK HYUN/Flashback」などがある他、参加型のブックプロジェクトや絵本の企画編集も手がける。主な取り組みとして『東北未来絵本 あのとき あれから それから それから』荒井良二+山形新聞社(第32回新聞広告賞新聞社企画部門最高賞受賞)、『山のヨーナ/Picture Book & Original Soundtrack』荒井良二+akaoni、『みちのおくノート』山形ビエンナーレ2014記録集、『ブックトープ山形』ナカムラクニオ、『あっちの耳、こっちの目』ミロコマチコ、『ひとり歩きの山形建築ガイド』森岡督行、『盆地文庫』いしいしんじ、坂本大三郎 他、『東京影絵/Tokyo shadow puppet theater』川村亘平斎との共著、『POSTじゃあにぃ』荒井良二+ミロコマチコ+spoken words project、『東京ビエンナーレ2020/2021 見なれぬ景色へ』東京ビエンナーレ記録集など。
2018年よりおよそ2年をかけて、パートナーの故郷・群馬県の桐生新町重要伝統的建造物群保存地区にある築55年の家屋をリノベーションし、2019年4月に家族とともに移住。角川文化振興財団クリエイティブディレクターとして「角川武蔵野ミュージアム」(埼玉県所沢市/隈研吾氏設計)の開館準備に参加し、竣工記念展「隈研吾/石と木の超建築」をキュレーションする。2021年より国際芸術祭「東京ビエンナーレ2020-2021」プログラムディレクター、東京藝術大学テクニカルインストラクターを経て、東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻准教授に着任。
(東京藝術大学油画第2・第5研究室による桐生アートリサーチ報告展「REAL TIME IN KIRYU(リアルタイム・イン桐生」のMAPに掲載した作品としてのテクスト)
かつて暮らしたパリやバンコクでは、夕刻になると自己滅却欲が疼き出した。陽が傾くと中判カメラを首から下げて、ひとり街区を歩いた。あてがないようでいて、気がつくといつも同じ路地、同じ角、同じ石段に足が向いている。奥の方へ、低い方へ、寂しい方へ。するとたいてい、夕日を川面にトロリと映す、静かな運河や水路にたどり着いた。
そういう場所にはホームレスやロマたちの吹けば飛ぶような仮住まいや、逆光のなか夕涼みするスラムの女性や子どもたちの姿があった。たゆたう光と影、流れゆく水や風のなか、よるべなき人々も、傾いだ家や橋もぼく自身も、等しく抗することのできない夜への道程に浸されている。そんな時、ぼくは街に疎外されながら、同時に街に抱かれていると感じていた。
妻子を伴い桐生に移り、小さな舟のような家に暮らしはじめて5年になる。よくここまでたどり着けたと思う。ぼくはもう孤独なストレンジャーではない。だがこの街の路地は、川は、丘は、油断ならない。桐生に来てほんの数日でぼくは、この街がかつて暮らした老獪な都市と、根底において通じていることに気がついた。
のっぺりした郊外の住宅地と違って、古くから人が集まって住み、無数の労働と唄と祭りと、家族の思い出を溜め込んだ山峡溪谷状のこの地は、いまではもうすっかり年老いてしまって、織機は止まり、学校は閉鎖され、ユンボが空き家を崩す音が響き、歯抜けのような空地が街の地図上にまだらに拡がっている。モダンタイムスが拓いた織都・桐生は、再び数百年をかけてもとの渓谷に戻ろうとしているのか。
無精髭にサンダルをつっかけ、ポケットにiPhoneだけ入れて街をひとり漕ぐ。奥の方へ、低い方へ、寂しい方へ。すると路地裏や神社の石段、川辺の遊歩道や路傍の石碑に、かつて桐生に引き寄せられたストレンジャーたちの気配を感じる。不思議なことに、白地図が増えていくにつれ、その気配はかえって強まっているのだった。彼・彼女ら切れぎれの声は、後世の桐生を生きるぼくに語りかける(もちろん空想のなかで)。お前はこの街をどう生き、何を創造し、何を失うのかと。以下のA〜Mは、そうしたぼくの個人的な徘徊と交信の備忘録であり、同じくこの迷路のような街に呼び寄せられてしまったあなたに供する、声なき音声ガイドである。
***
【A – 芭蕉の馬】 糸屋通にある芭蕉の木戸をくぐると、内部は思いのほか暗かった。天窓からおぼろに注ぐ光で浮かび上がる棟方志功の壁画に息をのむ。青森が生んだ画狂人がこの店の壁に筆を振るったのは70年も前のこと。棟方も彼を招いた小池魚心もこの世を去って久しいが、壁に塗り込まれた馬と天女はいまも無邪気に駆け続けている。棟方はベートーベンの第九を好み、レコードを大音量でかけながら描いていたというが、この馬屋でも交響曲は鳴っていただろうか。
【B – 五十番のポスター】 芭蕉の斜め向かいには老夫婦が営む食堂・五十番がある。この店は三浦春馬主演の映画「君に届け」(2010年)のロケ地になった。劇中で彼が座ったテーブル側の壁には撮影当時の宣伝ポスターが貼られているが(*1)、彼のはにかんだ笑顔は時の経過とともに白っぽく褪色して半ば消えかけている。運ばれたソースカツ丼の蓋をとる。ゆらりと立ち上る湯気に、美しい俳優のあまりにはやい死を悼む。
【C – 西桐生駅の青の時代】 上毛電気鉄道西桐生駅は朝夕だけ通学の高校生たちで賑わう。もうすぐ築百年を迎えるマンサード屋根の駅舎を見るたび、不謹慎だがぼくは毎回、「人のセックスを笑うな」と呟いてしまう。松山ケンイチ主演で映画化された山崎ナオコーラの同名小説の、ここもロケ地になったのだ。映画は20才年上の美貌の版画家に翻弄される19歳の美大生を中心に、若者たちのどこにもたどり着けない青春を描く。それはいつの時代も変わらない、絵の具にまみれて埃っぽい美大生の群像劇であり、そこにかつてのぼく自身もいる。
【D – 大川美術館の石内都展】 駅前のセブンイレブンでたむろする高校生たちを横目に急勾配の坂を上がる。街を見下ろす水道山の中腹にある大川美術館では、桐生出身の写真家・石内都の回顧展『STEP THROUGH TIME』が開催されている(*2)。彼女の被写体となった人々の、身体に刻まれた傷跡や皺、口紅や下着などの遺品を撮った写真の肌理は、美術館から眼下へとひろがる街の表層と地続きだと思った。その皺や傷のなかへと、また降りていくことにしよう。
【E – 北小学校の石像】 山手通を左に進むと、娘たちの母校・桐生市立北小学学校の校庭がひろがっている。その片隅にある竹藪に、ぼくの好きな石像が隠れるようにして立っている。近代彫刻のフォルムに属さない、野辺の石仏や狛犬のようなふくふくとした石の少年が、仁王立ちで校庭のまんなかを凝視しているのだった(*3)。地域の篤志家が地元の石工に彫らせたのだろうか、台座に作者の銘はなく〈健康〉とだけ刻まれている。冬の持久走大会では竹藪(と少年)のまわりを、子どもたちが白い息を吐きながらぐるぐるまわる。その周回軌道も仁王立ちも、この先ずっと続くものだと思っていたが、最近、遠からず北小も少子化で閉校になるとの噂を聞いた。
【F – 美和神社の切り株】 北小から歩道橋を渡って美和神社への石段を上る。美和神社の境内には、かつて彫刻家の掛井五郎に縁ある楠の大木があったという。3年前、91歳で亡くなった掛井は1991年から5年間、桐生の鋸屋根工場をアトリエにして、この地の草木や自然をテーマに版画や彫刻を制作した。楠はその間に伐採されてしまい、惜しんだ掛井は切り倒された幹をアトリエに持ち帰って木像に仕立てたという。その作品《レクイエム 美和神社の楠に捧ぐ》は大川美術館に収蔵されている。桐生市役所の敷地にも掛井の大型作品《人間の問題研究Ⅴ》(*4)が設置されている。その背の高い、樹木のような人間像を見上げるたび、楠の木漏れ日を浴びて立つ老彫刻家の立ち姿を想う。
【G – 桐生が岡動物園のゾウ】 神社の石段をさらに登ると、桐生が岡動物園の南門が迎えてくれる。初めてこの街に来た日、当時小学生だった娘たちを連れてこの坂を登り、一緒にゾウを見たのだ。2017年に61歳で亡くなった〈イズミ〉という名のアジアゾウだ(*5)。彼女の佇まいもぼくのなかで桐生の印象と重なっていく。老いて静まり、いく筋もの川や水路や路地を表皮に深く刻み、優しい眼差しは追憶に向けられている。乾いた巨体はすでに消え、象舎も解体されたが、桐生市民3世代の記憶のなかにイズミは存在し続けている。その幾千ものゾウの思い出を縫い合わせたら、きっとこの街の地図に似ているだろう。
【H – 一の湯の路地】 再び路地へ。一の湯の煙突を目印に丘を下っていく。ここまで来れば空き家の割れ窓も、崩れかけた土蔵もすっかり見慣れた光景だが、この銭湯の脇に続く狭い路地の風景にはとりわけ心が騒ぐ。木造平屋の廃屋が、煙突の背後に影のように連なっている。112年前に開業した一の湯は、もともと絹織物工場で働く女子工員専用の浴場だった。この長屋で互いを励まし合い、細い路地を往復して完結したたくさんの女性たちの人生があったのだ。荒れ果てた様子は哀しいが、もし宅地になってしまったら彼女たちの気配も消えてしまいそうで、切ない。
【I – 岩秀織物の骸骨】 路地を抜けると「ガシャン、ガシャン」とジャカード織機の音が聞こえてくる。その音の出どころとおぼしき建物の門に「見学できます」の立て札があった。工場の扉を開け大声で主人に見学を乞う。岩秀織物は夫婦二人で切り盛りする、社寺のお守り袋の生地を専門に織る工場だが、その内部には驚くべき異空間がひろがっている。工場の主人が「退屈な作業の気がまぎれるように」と、電飾やモール、大小の人形やプラスチックの骸骨で、作業場全体を飾りつけているのだ(*6)。「ガシャン、ガシャン」と黒光りする自動織機の駆動とともに、工場内を廻っていく色とりどりの糸、暗号のような紋紙、織り上がっていく極彩色の布地、そして踊る骸骨たちに囲まれたぼくは、まるでホルバインの死の舞踏に迷い込んだみたいだ。
【J – 根本山の丁石】 織機のリズムを帯びたまま別の路地に飛び込んでみる。人家の裏庭と路地との曖昧な境に惑いながらあてずっぽうに進んでいて、一角に〈根本山〉と刻印された石碑を見つけた(*7)。地区の長老に聞いたところでは、これは〈丁石〉といって、桐生の奥のさらに奥、熊がうろつく桐生川源流の忘れられた修験の聖地・根本山までの道筋と距離を示しているという。だが路地奥に遷されたこの小さな山と古い信仰について知っている者はほとんどいなくなった。ぼくはその後も何度か丁石を探しに路地にわけ入ったのだが、どういうわけか見つけられないでいる。
【K – 坂口安吾 千日往還の碑】 再び車が行き交う本町通りに出て現世に息継ぎをする。しかしそこも無頼のひと・坂口安吾が没した旧書上商店跡(花のにしはら)だ。安吾はこの場所で『夜長姫と耳男』を書き、『新日本風土記』執筆中の1955年2月17日の早朝に急逝した。ぼくよりも一つ若い48歳だった。桐生にはもう一つ、安吾の文学碑がある。桐生川沿いの桜並木に建つその石には、〈花の下には風吹くばかり 坂口安吾〉と記されていた(*8)。代表作『桜の森の満開の下』のラストそのままに、彼の魂と身体が四散した桐生には、路地や水路や、廃工場の窓をゆらす赤城おろしの砂塵に混じって、「生きよ、堕ちよ」という安吾の怒声がずっと鳴っている気がする。その死から69年が経ったいまでも。
【L – 大野屋のだんご】 街には安吾ゆかりの店が数軒営業を続けている。好物だったという大野屋の焼きだんごをひとくし頬張って店を出ると、すっかり長くなった影の先は、廃屋か現役か定かでないスナックやパブが密集する昭和の飲屋街だ。まばらに点灯する赤提灯の一つから、酔いで目がすわった安吾がひょいと出てきそうだ。
【M – Purveyorsの屋上看板】 路地徘徊の最後に〈Purveyors〉の錆びた階段を上る。ここまで来れば街は薄暮の頃。町工場を洒脱に改修し、遠方から旅人たちが集うこのビルの屋上には、パチンコ店「New Central」の解体工事で出たネオン看板の文字が、「N/e/w/ e/r/ a」と組み直されて取り付けられている(*9)。桐生の夜に白々と輝く「ニュー・エラ=新世界」という表明は、この街をめぐっている声なき声への応答のように読めた。象舎は解体され、ストレンジャーたちは物語を遺して去っていった。ネオン管の光に背中を照らされながら、やがて来る新世界でぼくも街に吹く声の一つなれるだろうかと考える。旧世界のほとりで。家族との夕餉の約束を気にしながら。