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TAKENORI MIYAMOTO / Portfolio

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NOTE

キュレーターノート:瓦礫と熊手

山縣良和の《THE SEVEN GODS(七服神)》をはじめて見たのは、2012年冬の新宿だった。3.11の復興支援チャリティー・プログラムで、様々なアーティストが伊勢丹新宿店のウインドーに自作を展示したのだが、熊手のような光背を背負った山縣の作品は、そのなかでとりわけ異彩を放っていた。
別のウインドーの入れ替えを監修していた私は、夜明けまで入念にレイアウトをチェックする山縣の作業を横目に眺めていた。華奢で伏目がちな姿は彼の極彩色のファッション表現とも、私の勝手な〈ファッションデザイナー〉のイメージとも違っていて、その辺境的な佇まいは早朝の新宿に出現した《THE SEVEN GODS》との鮮やかな対比によって、私のなかの〈山縣良和〉の印象をさらに強いものにした。どこからか「この人だよ」という声が聞こえた気がした。
当時私は山形の美術大学で復興支援室を立ち上げ、幼ない娘たちへの放射能の影響に怯えながら、津波被災地での支援活動に奔走していた。だから必然的に、この未曾有の災禍に対して同時代のアーティストたちがどう反応し、行動し、作品化したのかを、キュレーターとして最大の関心事にしていた。つまり私は苛立っていたのだった。震災を経ても変わろうとしないアートの語り口に、たった1年で被災地への関心を失った世間に。私もまた、震災後の東北で病み疲れていたのだと思う。
初期の代表作《THE SEVEN GODS》誕生の背景(それは3.11の衝撃からつくられた)を詳しく知ったのは、それから暫く経った後だったが、私は初見の段階ですでに、いつか必ず山縣の展覧会を手がけてみたいと思っていた。だがそれは(震災から1年後の)今ではないとも思った。なぜなら、当時の私のフィールドだった砂塵舞う被災地沿岸部の景色と、ファッションデザインとは、あまりにかけ離れているように思えたからだ。
数戸しかないリアス式海岸沿いの集落の、コンクリートの基礎が剥き出しになった家々の跡で、津波が粉砕したガラスや陶片を含んだ細かな瓦礫を拾い集めて土嚢袋に詰めていく。時折、骨のようなものが出てくると、すぐさまパトカーがやってきて規制線を張った。そんな荒涼とした3.11から1年後の浜の風景は〈賽の河原〉そのものだった。あの仏教説話は、現実の描写だったのだ。
時空が捩れたような被災地の渚を、私がそれまで学び・実践してきた現代アートの文脈で捉えることはほとんど不可能に思われたのだが、山縣と《THE SEVEN GODS》を見た時、彼となら日本の歴史と市井の営みの大きな流れのなかで、3.11以後の新しい表現を探っていけると思った。そこから本展の協働にたどり着くまで、実に12年の月日を要した。
アーツ前橋での山縣良和展「ここに いても いい」の制作は予想通り、私のなかにある震災直後の東北での体験が度々呼び出される現場になった。山縣は近隣の空き家や廃屋から4トントラック1.5台分の家具家電を持ち出して美術館に移設した。亡き宿主の気配をまとったそれらを一つひとつ、ボランティアの若者たちとアルコールで拭き上げながら、私は石巻の渡波地区で出会った老人のことを思い出していた。
2階まで津波に浸かったその家は、建物ごと汚泥と一緒に洗濯槽に投げ込んだような有様だった。老人は家のなかに入ることも出来ず、玄関前で魂の抜けた人のように座っていた。私たちは社協の指示通りに、ヘドロがこびり付いた家財道具を老人の前に運び出し、廃棄するもの、拭き上げてまた屋内に残すものの判断を仰いでいった。
老人の選別はおそろしく時間がかかった。「どうせ取り壊す家なのに、この作業に意味あるの?」と小声で囁く者もいた。しかし、「いる、いらない、いる、これは…何だったかな、ああ、これはね」、モノに宿る記憶を丁寧に呼び出していくうちに、もうろうとしていた老人の意識が、徐々に靄が晴れるように甦っていくのを私は見た。
3月12日夕方、福島第一原発メルトダウン翌日には、私が展覧会やワークショップの会場に使っていた山形市内の元小学校校舎に、福島各地から避難者が流れ込んできた。無料のWi-Fiが飛んでいること、透析専門外来の病院に隣接していることが、彼らがそこを取り急ぎの目的地にした理由だった。戦前の校舎をリノベーションした瀟洒なギャラリーはたちまち避難者家族たちの仮住まいになり、長い廊下にはタコ足配線でつながれた沢山のスマートフォンがぶら下がった。みな廊下に座り込んで放射性物資拡散のニュースを凝視していた。
元商業施設をコンバージョンしたアーツ前橋は、中央のメインギャラリー1・2を囲むように細長い展示室に配されている。山縣がその回廊部分にノマドをテーマにしたコレクション《After All》や、辺境の島々で制作された《Isolated Memories(孤立した記憶)》の衣服を並べた時、私は原発事故被災者の故郷喪失を思い起こさないわけにはいかなかった。
2000年代に入りアートは美術館を出て多様な地域の状況と関わるようになったが、本展で山縣はそれを逆流させ、美術館内部に異次元の少子化に沈みゆくこの地方都市のリアルを引き込んでいく。この原稿を書いている4月16日現在、大量の家具家電、放置自転車、軽トラック、廃業した織物工場の道具類などが、アーツ前橋の地下にある5つのギャラリーを占拠していて、山縣のレイアウトチェックを待っている。この声なきモノがたりの渦がどんな〈あとがき(= writtenafterwards)〉のファッション空間を生成していくのか、しっかり見届けたい。

* * *

ここまで書いて私はふと、もしかするとこの展覧会全体が熊手なのではないかと思い至る。「ここ」に流れ着いた幾百のモノも衣服も観客たちも、その巨大な指が掻き集めた縁起ではないのかと。その証左に、展示構成の核となる中心部には〈お多福〉のような赤ん坊のぽっちりとした顔が浮かんでいる。作品《It’s Alright To Be Here》は、山縣が息子との日々を綴った最新作だ。
凄惨なテロや震災の痛みをテーマにしていても、山縣はいつも必ず「愛おしい」という言葉を添えてファッションを語ってきた。生々流転する人類史において私らが家族の時間は礫石のごとくだけれども、弱く脆いものに抱く「愛おしい」という感情は、世代を超えて私たちが受け継いできた美の故郷であり、災禍にあっても揺るぐことのない縁(よすが)である。

「妻子見れば まぐし愛し 世の中は かくぞ道理」 万葉集

「ここに いても いい リトゥンアフターワーズ:山縣良和と綴るファッション表現のかすかな糸口」展によせて)


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