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NOTE

家族の湿度

是枝裕和監督の『万引き家族』を観てきた。昭和的な「家族の幸福」が、生活保護、DV、児童虐待、リストラ、風俗産業、労働者の搾取など、現代的テーマから逆説的に、幽霊のように浮かび上がってくる。苦しくて、切ない。
鑑賞後、ツイッターのハッシュタグ「#万引き家族」で、感想コメントを拾い読みしていたら、「また観たいけど、もう見たくない」というコメントがあった。まったく同感だ。
このコラムのタイトル「みちのおくへ」には、古くから東北を指す「道の奥(みちのく)」と、震災後の未来「未知の奥」の2つの意味を込めてつけたのだが、考えてみれば、これからの「家族」の行く末こそ、「私」にとっても「私たち」にとっても、避けては通れない切実なテーマだろう。
子は育ち、親は老い、肉体は衰えていく。仕事、家庭、ローン、健康、介護… 誰もが「家族」の行く末に、漠然とした(あるいは明確な)不安を抱えている。しかし、老人国家化する日本で、その不安に対するセーフティーネットとしての「家族」は、抜けかけた歯のように、すでに根茎から揺らいでいる。
50年代に小津安二郎が撮った『東京物語』は、上京した年老いた両親をめぐって、家族がバラバラになっていく物語だった。二十代の頃、夢中になって読んだ村上春樹氏の小説は、一言でいうとデタッチメントの物語で、主人公は多くの場合、家族の存在が希薄な、一人暮らしのクールな都市生活者だった。
そして是枝監督の『万引き家族』の登場人物は、実はまったくの他人同士であるにもかかわらず、擬態家族としてコミットメントする。それぞれが「本当の家族」から受けたトラウマを抱えながら、生きるためにコミットするのである。
地方から都市へ、ローカルからグローバルへ。古くさい地縁・血縁から脱出しスマートに生きていくために、いったんは切り捨ててきたはずの濃密な「家族」の湿度が、スクリーンから滲み出て、まとわりついてくる。したたる汗と交わる身体、陽の当らない庭、濡れた布団、湯上りのバスタオル、押入れの中の会話。おそろしくリアルだ。誰しもが記憶にあるはずの、近すぎる家族の距離が生み出す湿度が、愛おしい。
映画「万引き家族」の湿度に、どうしようもなく「家族」を感じてしまう私たちがいる。だがその一方で、そこに帰りたくても、もう帰れないと思う自分もいる。孤立する家族は、これからどうなってしまうのか。どこへ向かっていくのか。一人ひとりが、過去の定型にとらわれずに、どうやって「家族のようなもの」をつくっていくのかが、これからの社会の大きなテーマになっていくだろう。(産経新聞コラム「みちのおくへ」/2018年7月掲載)