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大学の市民参加プログラムとして、身近な道具のルーツを探る自主勉強会を開いている。12月の成果発表会に向けて、月に1回、平日の夜に仕事を終えた20人ほどのメンバーが県内各地から集まって、それぞれ持参した品々を手に、調べてきた「モノがたり」を順番に披露するのである。先月、福祉施設で働く女性が「箒(ほうき)」について、興味深い発表をしてくれた。彼女によると、箒はもともと祭祀具だったという。なるほど、神職がお祓いで使う御幣や大麻などは、箒によく似ている。
箒=祭祀具といわれて、奈良で生まれ育った僕がパッと思い浮かべたのは、毎年8月に東大寺大仏殿で行われる大仏の「お身拭い」である。柄の長い箒を手に持った白装束の男たちが、籠のゴンドラで吊られながら、巨大な大仏さまに取り付いて掃除している光景は、なかなかのインパクトである。そういえばあの箒も不思議な形をしていたなと、さっそくインターネットで画像検索をかけてみると、やはり大麻ともハタキとも、箒ともとれる形状をしていた。あれもやはり、埃や煤を払う掃除道具であると同時に、穢れを祓う祭祀具の一種なのだろう。都市伝説の類とは思うが、京都では玄関に箒を逆さに立てるまじないをするとか、妊婦のお腹を新しい箒でなでて安産を願うとか、改めて考えてみると、箒と民間信仰をつなぐ話はいろいろある。西洋では魔女の乗り物である。
しかし、現代生活のなかにある箒は、とっくにその呪術的な力を失い、掃除道具が入ったロッカーの隅でしょんぼりしているようにみえる。部屋のチリやホコリを除去するなら、ダイソン社の掃除機のほうが何倍も優秀だろう。ルンバなるロボットにいたっては、勝手に部屋を掃除してくれるのである。掃除用具としての機能や利便性では勝負にならないから、ホウキグサを職人が手で編んでつくる箒が家庭から消えていくのは必然かもしれない。それでもなお、天然素材の箒を愛用する人は、ただゴミを無くすことだけでなく、部屋の四隅を掃き清める所作や、畳の表面を払う音から感じられる、清々しい気分を支持しているのではなかろうか。
山形の学校では、地元の職人が手作りした箒を使っているそうだ。ベルリンに長く住んでいた友人によると、ドイツの小学校では、掃除は専門の清掃スタッフの仕事であり、児童生徒が自分で教室を掃いたり、拭いたりすることは考えられないという。意識したことはなかったが、ルンバの時代にあえて、子供たちに箒や手縫いの雑巾で清掃させるのは、掃除の技術というよりも、場への敬意を身体にしみこませる日本独特の教育文化なのだろう。
勉強会では他のメンバーからも、箸やボタン、カゴ、鈴などありふれた道具類について、同様の面白い話を聞くことができた。ここでご紹介するには紙幅が足りないのが残念である。テクノロジーの発達は、かえって道具に込められていた本来の意味や祈りを、忘却の彼方から甦らせていくだろう。
(産経新聞コラム「みちのおくへ」/2017年10月掲載)