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TAKENORI MIYAMOTO / Portfolio

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NOTE

絵画の終焉を看取る

武田鉄平『PAINTINGS OF PAINTING』によせて

およそ2年間、Tがこの画集に収められた絵を描くために引きこもっていた山形駅前のビルの一室は、すでに空っぽになっている。
あのとき彼が置かれていた状況から推察すると、おそらく家族ですら容易には立ち入れなかったアトリエに招き入れられて、これらの絵の目撃者になったとき、私を激しく捉えたのは、イーゼルに載せられていた作品よりも、世界から隔絶されたようなその室内のありようだった。
Tは37歳まで個展を開いたことはなく、アートシーンとは縁遠い暮らしを、冬は雪でしばしば交通が麻痺する鄙びた地方都市で送り、2013年から2016年のおよそ3年を費やして、10枚の奇妙な顔を描き上げた。
家族とのちにTの伴侶になる女性以外に、彼がそのような絵画に取り組んでいることを知る人はいなかった。
この作品集の出版によって、Tの絵画は今後さまざまに語られていくだろう。
しかし、一見してポップなこの絵画が生まれた背景には、とても繊細な家族の物語があり、そのことに起因するTの鬱屈した感情の澱のようなものが、アトリエに濃密に漂っていた。
当時のTの生活、そしてこれらの絵がどこで、なぜ、どのようにして描かれたのかを知る数少ない人間として、画家としての彼のはじまりの光景をここに書き留めておきたいと思う。

山形市、2016年。
パチンコ屋から漏れ出るけたたましいBGM、原色を競う居酒屋の看板、ハンバーガーショップとドラッグストア、この国ではどこも似たり寄ったりの駅前風景だが、人口が毎年1万人ペースで減り続ける雪深いこの街では、チェーン店の凡庸さをもってしても、東北の憂鬱を消し去ることはできない。
2011年3月に、隣接する2つの県を、巨大津波と原発事故が襲ったのである。
死者と行方不明者の合計は約2万8千人。
破壊された建物は40万戸、避難者数は5万人にのぼった。
5年が経過し、その影響は表面上、この街からほぼ消えていたが、被曝を恐れ福島から逃れてきた人々が、街に紛れるようにして避難生活を続けていた。
街は安穏とした日常を取り戻したけれども、その「日常」は震災前のそれとは、どこか違っている。
一体、何が違ってしまったのか。
自分でもわからないまま、あの強烈な揺らぎから4年、5年と時間だけは過ぎていたが、震災によって生じた日常のズレは、絵画を描くこと、観ることにも、影響を与えているはずだった。
少なくとも東北では、震災前の絵画と、震災後の絵画は違って見える。
そのように公言してしまう私自身も、未だあの日々に囚われている一人だ。

Tがこの奇妙な顔の絵を、人知れず描き始めた時期は、マスメディアもSNSも、震災のニュースを流し続けており、東北を拠点とする表現者たちは、「震災/東北」からどのような距離感で作品を創るのかを、不可避に問われ続けていた。
遮断しても、平静を装っても、現実に起こった巨大な破壊と、それ以前の創作とのズレから生じてくる「問い」から逃れることはできない。
応答のかたちは様々である。
Tから突然、電話がかかってきたのは、その年の冬だった。
当時私は、山形にある小さな大学で教えていた。
「油絵を描きためている。あなたの意見を聞きたいので、申し訳ないけれど一度自分のアトリエに来て、作品を見てくれないか」とTは言った。
ひどく緊張した、くぐもった声だった。
Tと私は、かつて東京の同じ美術大学に通っていて、学年も専攻も違っていたが、アルバイトがきっかけで顔見知りになった。
さまざまな学部から集められた学生たちが、大学入試の補助をする短期のアルバイトだった。
その仕事でちょっとした学生グループができて、卒業後もメンバーから、誰がどこそこの会社に就職したとか、留学が決まったなどの噂が耳に入ってきた。
グラフィックデザインを学んでいたTは、業界で知られた大御所デザイナーの事務所に入ったと聞いていたが、私が5年ほど海外に出ている間に、グループの連絡網とは疎遠になってしまい、付き合いはそれきりになっていた。
それが、教職に就くため山形に移住してすぐ、展覧会のオープニングか何かでTに再会し、立ち話をした。
そのときに初めて、Tが山形市出身であることを知った。
当時Tは家業を継ぐために、東京のデザイン事務所を辞め、故郷に戻ってきたばかりだった。以来、私とTは、ずっと同じ街で暮らしてきたのだが、顔を合わせることはほとんどなかった。
後から知ったことだが、駅前にある家族経営の小さなホテルを継いだTは夜勤を担当し、朝までフロントで接客をし、日中は眠る昼夜逆転の生活を送っていた。
また、ホテルの仕事は旅行者や出張のビジネスマンが相手で、同じ街で暮らす私とは接点がなかったのだ。
東日本大震災直後から、日本ではツイッターやフェイスブックを始める人が爆発的に増え、私たちはソーシャルメディアで地域の人々や、被災者、支援者、そして旧友たちと連絡を取り合っていたが、TはSNSには関心がなかったようだ。
だから、普段あまり使わない、研究室の固定電話が鳴って「お久しぶりです」とTの声が聞こえたときは驚いた。
山形で再会してからざっと、10年は経っていたと思う。
その間に大震災があり、街も人も、そしてTの人生も、以前とは違ってしまっていた。

電話のあと、Tからメールでいくつかの作品画像が送られてきた。
そのときすでに、この画集に収められている絵の何枚かは完成していたのだが、恥ずかしながら私は、メールに添付された画像から、この作品の驚くべき特徴である筆致のトロンプ=ルイユ(騙し絵)に気づくことができなかった。
それは、ただ乱暴に描き殴った絵だった。震災がもたらした大きな揺らぎの中で、何を表現したら良いのか分からなくなった者の、未熟で不正確な作品に見えた。
画像に添えられた文面は、電話での語り口よりも切羽詰まったものだった。
恐らく半月くらい、受信トレイにあるメールを放置していたと思う。
Tと会うことを躊躇したのには、もう一つ理由がある。
実は、電話でのやりとりから遡ること3年ほど前、つまりあの震災から2年後の2013年頃に、まだ幼かった長女を連れて入った山形駅構内のカフェで偶然、Tを見かけていた。
柔道選手のような体格のTは、見違えるほど痩せていた。
身なりこそホテルマンだったが、遠目にもわかるくらい髪はボサボサで、頬は削れ、異様な目つきをしていた。
夜勤前に立ち寄ったのだろう、コーヒーをテイクアウトして店を出て行くその後ろ姿は、魂を失った者のように虚ろで、とても声をかける気にならなかった。
何かがTの身に起こったことは間違いなかったが、すでに疎遠になっている自分には関わりのないことだと思った。
震災のせいで、みんな多かれ少なかれ変化を余儀なくされ、何かしら悩みを抱えていたし、他ならぬ私自身も、復興支援に忙殺されていた日々がひと段落し、疲弊した家族の暮らしを立て直しているところで、Tに何か有益なことを言えるとも思えなかった。

逡巡し続ける私宛に、Tから何度もスケジュールを確認するメールが届き、とうとう根負けしてアトリエを訪問する日時を決めたとき、季節は冬から春になっていた。
後になって、Tが言うところによると、待ち合わせ場所の駅のカフェにやってきた私は、心底迷惑そうな顔をしていたそうだ。
久しぶりに会ったTは、予想に反して、恰幅がいい、元の姿に戻っていた。
ぎこちない挨拶を交わしたが、3年前に、まさに同じこのカフェでTを見かけていたことについては黙っていた。

Tに促されて、アトリエのドアを開けたとき、ただならぬ気配にたじろいだ。
そして私はすぐに、このアトリエがどれほど切実に、駅前の喧騒と隔絶して存在してきたかを理解した。
駅前通りに面して大きなガラス窓が並んでいたが、絵を描く光源を一定にするためだろう、昼間だというのにブラインドはぴたりと降ろされていた。
膨大な量のドローイングや画集、レコードの類が、床からうず高く積み上がっている。
年代物のレコードプレーヤーがあり、小型冷蔵庫ほどの大きな木製スピーカー2台に板を渡して、作業台に設えてあった。
台の上には、たくさんの絵の具と筆が几帳面に並べられ、かなり使い込まれていた。
私がゆっくりとアトリエを眺め回している間、Tは落ち着きがない様子で、動物園のシロクマのように、壁際を行ったり来たりしていた。
夜勤明けに仮眠をとり、夕方からまたホテルのフロントに立つまでのほぼ全ての時間を、このアトリエで過ごし、描き続ける。そんな生活が、もう2年以上続いているとTは言った。

イーゼルに制作途中の油絵があった。
のっぺらぼうの顔の絵だった。
それを見た瞬間、足元がグニャリと揺らぐような感覚になった。
と同時に、メールに添付されていた絵について、私がひどい思い違いをしていたことに気づいた。
私が言葉を探しあぐねていると、「何でもよかったんです」とTは言った。
「描くことに没頭できるなら、顔でも、花でも、何でも」。
訥々と、慎重に言葉を選びながら、Tは語り出した。
私も質問してみるのだけれど、会話はうまく噛み合わなかった。
Tは長い間、このアトリエでずっと独り、引きこもるようにして絵を描いてきたのだ。
目の前には、誰でもない顔。
恐らくは、もう一人の自分と、延々と語り合う時間だったのではないか。
雑誌のグラビアなどから任意で選んだ顔写真をモチーフに、A4サイズの紙片にドローイングを施す。
次に、三脚に立てたボードにその紙片をピタリと貼り付けて、キャンバスに油絵の具で克明に描き写していく。
誰かに求められたわけでも、見せるためでもない。
夜明けまでホテルで働いて、寝て、食べて、描くルーティンをずっと続け、およそ3ヶ月に1枚のペースで絵は増えていく。
9枚目の完成が見えた頃、ふと、自分が描いているこれは一体何なのか、誰かの意見が聞きたくなったという。
ほとんど独白になっているTの話を聴きながら、雪が降り積もる冬も、大地が揺れようとも、世界でテロが吹き荒れても、ブラインドを閉じて、ネットの情報も遮断して、筆致が創り出す肌理(きめ)を凝視し、描き続けているTの背中を、ありありと想像することができた。
そして、誰しもが経済やコミュニケーションに時間を奪われるように生きている時代で、これほどの密度の絵画が生み出された奇跡と、そのために必要な孤独の深さに慄いていた。

その場で、この次の10枚目の作品が仕上がったら、私がキュレーションしている山形のオルタナティヴ・スペースで個展を開くことを提案した。
Tを一刻も早くアトリエの外に連れ出したかったし、私自身が、この絵を見てしまったことの落とし前をつけなければと思った。
逃げるようにしてアトリエのドアに手をかけたとき、そこに貼られた「禁酒」の2文字が眼に飛び込んできた。

Tの個展はそれから2ヶ月後の7月に決まった。
会場は当時私が、仲間のグラフィックデザイナーや建築家たちと、古い空きビルをリノベーションし、ライブやドキュメンタリー映画の上映会などを不定期で開催しているスペースだった。
絵画展の解説文として何となくそぐわない気もしたが、告知のウェブページに、Tと再会した日のこと、アトリエの風景ついて短いコラムを添えた。
それを読んだTからメールで、顔を描き始めたのは母親の死がきっかけだったと告げられた。
あの日、駅のカフェで見かけた、Tの病み疲れた姿は、そういうことだったのか。
挫折、喪失、絶望を、ひたすら筆を動かすことで乗り切ったTの孤独な闘い、そのギリギリの精神状態が描き出した肌理に、あらためて身震いした。

Tの初個展の反響は、予想以上に大きかった。
SNSにアップした絵のディテールとストーリーに、目利きのディーラーたちはすぐさま反応し、実物を確認したいと東京から連日やってきた。
展示した10作品は瞬く間にソールドアウトし、購入の問い合わせがしばらく続いて、Tの暮らしは一変した。
自己治癒のアトリエから抜け出した37歳のサバイバーの、劇的に変わっていくその後の人生を、私は不思議な心持ちで眺めている。

私の顔のような、あなたの顔のような、死者たちのような、Tのトロンプ=ルイユを凝視していると、「ここではない何処か」を幻視する装置としての、懐かしい絵画の面影が蘇ってくる。
しかしTの絵画は、その異世界の故郷が、デジタル加工とフェイクニュースに惑う時代において、ほとんど消えつつあるか、あるいは、もうすでに失われてしまったことを同時に暗示してもいる。
私たちは絵画の終焉を看取る者のように、その顔の前から離れることができない。

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*武田鉄平の画集『PAINTINGS OF PAINTING』に寄稿したテキストを転載
United Vagabondsより2019年9月16日発行/編集:菅付雅信、ジョイス・ラム