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午前中スタートの撮影なのに「朝から瀧山をひとまわり走ってきたんですよ。途中に熊のフンが落ちていたから、ヒヤヒヤしましたけど」と平然という。山形では、日常的に山を駆ける、超人的な肉体の持ち主にしばしば遭遇するが、志鎌さんもその一人だ。
山の斜面から駆け下りた勢いそのまま、カメラを担いで列島のあちこちに飛び出していく。そしてまた、生まれ育った山の麓に、家族のもとに帰ってくる。森と街区を抜け目なく行き来する野生動物のように。
そのせいだろうか。彼が撮ったガンジス河や、ヨーロッパの景色は、山形から駆け下りた加速をキープしたまま着いてしまったかのような、ここからそんなに遠くはない場所に見える。
ぼくたちは既に知っている。ぼくたちの「旅」は、いつのまにか物理的な距離を埋める冒険譚ではなくなったことを。幾世代にもわたる記憶や感覚、例えば、神輿を担ぐ子供たちの汗ばんだ黒髪や、名もない伝承野菜が盛られた籠から立ち昇る香のように、「旅」は何気ない暮らしのなかから、ふいに顕れてくるのだと。一箇所にずっと留まって暮らしていても、生きることそれじたいが旅なのだと。
志鎌さんが写した蔵王の石仏や、インドの人々の微笑や、はだかの幼子は、ぼくたちが半ば忘れてしまった古い旅の作法を、遺言のように語りかけてくる。ぼくたちが既に知っていて、でもなかなか気づけないことを、里山と都市を絶えず往復する志鎌さんだからこそ、捉えることができるのだろう。遠くて近い場所で。近くて遠い場所で。ありふれた愛のなかに息づく神秘を。
(志鎌康平写真展によせて/2016年10月)