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TAKENORI MIYAMOTO / Portfolio

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NOTE

使い捨ての街で

16歳まで奈良で育った。父は当時、国立の文化財研究機関に勤めていて、子供が増えるにあわせて、秋篠町、半田横町、高畑町と公務員宿舎を転々とした。だから故郷といっても帰る「実家」はないし、親戚もいない。両親は現在長野県に暮らしている。
そんなわけで、なかなか奈良を再訪する機会はなかったのだが、育ち盛りの娘たちを見ていると、思い出されるのは少年時代の風景ばかり。望郷の思いが募り、ついに先日、数十年ぶりに山形から奈良まで車を走らせた。「父さんの思い出をたどる家族旅行」だ。
夕刻到着し、ホテルにチェックインする前に、一番ながく住んだ合同宿舎にみんなで行ってみたのだが、そこでさっそく僕の帰郷の高ぶりは挫かれることになる。11棟あった団地群のうち1~7号棟は老朽化のため完全閉鎖。残る4棟も新規入居者は入れていない様子で、人の気配がある部屋はまばら。案内板は朽ち落ち、人気もなく荒涼としていた。
閉鎖された団地の窓々はベニヤ板で塞がれ、敷地ごと高いフェンスで覆われていた。薄暮に浮かぶ無人の団地群は不気味ですらあった。「ここが…いつもお父さんが話してくれるところなの?」と長女は訝しがり、僕はパリ郊外に立ち並ぶ移民団地群や、灯りひとつなかった被災直後の相双地区を思い出さないわけにはいかなかった。
僕の記憶のなかで高畑合同宿舎は常に満室だった。ざっと350家族が支え合って暮らし、敷地内の路上は子供たちと井戸端会議の母たちであふれていた。宮本家は11号棟の角部屋で、4兄弟の家庭が上層階だと「騒がしくて迷惑がかかるから」と母が1階を選んだ。ナワバリだった公園に娘たちを連れていったら、子供の気配はなく砂場には鹿の足跡とフンが点々とあった。冷たいコンクリートの階段、重い鉄の扉、錆び朽ちつつあるそれらを呆然と眺めていると、ふいの初老の男性がやってきて、かつての我が家に入っていき、ほどなく11号棟でたった一つの電気が灯った。何もかもが悪い冗談のようだった。
ひるがえって山形の話。山間のとある温泉地に鉱山跡があると聞き、地元の方に案内してもらった。山裾の森から廃墟になった精錬所の煙突が突き出し、その前方にひろがる灌木もまばらな荒れ野を指差して「ここに鉱山で働く人たちの千人からの住宅群があったんですよ」とその人は言った。僕が見た限り、その痕跡は影も形もなかった。
街中では県庁の郊外移転に伴い、周辺で商いをしてきた飲食店やデパートが大打撃をうけ、映画館は軒並み消えた。対して広大な駐車場を備えた郊外のショッピングモールやシネコンは数百台のファミリーカーを従え、周りの田畑は核家族仕様の宅地に姿を変えていく。
たかだか25年で風景は根こそぎ変わっていくのだ。どこにでもある話。だが自分が「当事者」になってみるとダメージが大きい。そして想像してみる。今は栄えている郊外もショッピングモールが営業不振で撤退したら、もし老築化で移転したら、周辺の住宅地はどうなるのか? 駅も遠くて、夫婦が高齢で車が運転できなくなったら、ここは「便利な郊外」なんだろうか? 大量消費社会の果ては街さえも「使い捨てる」日常が、待っているかもしれない。
(産経新聞コラム「みちのおくへ」/2017年5月掲載)