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TAKENORI MIYAMOTO / Portfolio

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NOTE

のっぺらぼうの絵

大学の研究室の電話に、後輩Tから突然連絡が入った。「油絵を描きためている。専門家としての意見を聞きたいので、いちど自分のアトリエで作品を見てくれないか」とのことだった。
Tとは、東京で美大に通っていたころ、入試験補助の短期アルバイトで一緒だった。僕は4年生でTは1年生。1年にしては生意気なやつ、という印象だったが、バイトをきっかけに、ちょっとしたグループのようなものができて、卒業後もそのメンバーから、互いの就職や留学などの噂は耳に入っていた。
山形に引っ越してきてまもなく、何かのイベントでTに偶然、再会した。そのときはじめて、Tが山形市出身であること、家業を継ぐために故郷に戻ってきたことを知った。直接話したのはそれ以来だから、10年ぶりくらいだろうか。
実は一度だけ、駅前の喫茶店でTを見かけたことがあった。声はかけなかった。というのも、Tは見違えるほど痩せていて、目つきも幾分、鋭くなったような気がした。「油絵を描いている」というのも、妙な話だった。Tが大学で専攻していたのはグラフィツクデザイン。母校のなかでは最難関の学科だった。学業優秀なTが卒業後に就職したのは、デザイン業界では知られた大御所デザイナーの事務所と聞いていた。
しばらくメールでのやりとりを重ねてから、山形駅で待ち合わせて、Tのアトリエを訪ねた。案内された住居兼テナントビルは、僕が住んでいるマンションのすぐ近くで驚いた。Tに促されてドアを開け、アトリエに足を踏み入れたとき、充満しているただならぬ緊張感に、僕は怯んだ。駅前通りに面した大きな窓は採光充分だが、絵を描く光源を一定にするためだろう、昼間なのにブラインドがびたりと降ろされていた。
床には膨大な量のスケッチの束、分厚い画集、レコードの類が、うず高く積みあがっていた。大きなスピーカーに載せた作業版には、几帳面に並んだたくさんのチューブや筆などの画材。どれもかなり使い込まれているようだ。このアトリエがどれほど切実に、駅前の喧騒と隔絶して存在してきたか、僕も学生時代に油絵を描いていたから、すぐに理解できた。Tが仕事の合間に、睡眠時間を削って絵を描きはじめて4年になるという。半端な覚悟・姿勢では、こんなアトリエにはならない。
イーゼルに描きかけの油絵があった。のっぺらぼうの顔の絵だった。Tの説明によると、はじめに雑誌のグラビアなどから任意で選んだ顔を(それが「誰か」ということは重要ではないそうだ)紙に無造作に描き殴る。ほんの数分の筆致が生みだした色・形の混濁を、今度は数ヶ月を費やして、キャンバスに克明に大きく描き写していく。集中力と描写力を要する作業だ。
そうして描かれた「顔」は、もはや「俺」でも「おまえ」でも「誰か」でもなく、「絵画」になりたがっている。なろうとしているけれど、はたして俺は「絵画」なのか? これが「絵を描く」ということなのか? という問いを、のっぺらぼうは、発しているように見えた。何故、何を、描きたいのか? T自身も、まだよくわかっていないのではないかと僕は思った。Tもそのとき多くを語らなかったが、ともかく2年以上を費やしている顔の連作が、なんとか完成するところだという。僕は「完成したら自分が手がけているギャラリーで発表しないか」と申し出た。
Tの初個展は7月に決まった。案内状に印刷するための文章が、Tから送られてきた。そこには、「顔」の絵を描きはじめたのは母親の死がきっかけだったと綴られていた。あの日、駅前の喫茶店でTを見かけたのは、その頃だったのかもしれないと思った。
(産経新聞コラム「みちのおくへ」/2016年6月掲載)