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TAKENORI MIYAMOTO / Portfolio

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NOTE

〈境〉にて

「姥さまのところまで散歩にいこうか」と娘たちに声をかけた。最上三十三観音の第七番、岩波観音まで続く旧街道を家々の庭の果樹や、路傍の野花、飛び交う虫たちについて、子どもたちと語り合いながらゆっくりと登っていくと、川と交差するY字路の大きな石のうえに「姥さま」がいらっしゃる。
異形。右膝を立てて口を開き、嘆き悲しんでいるのか、あるいは叱咤しているのか、どちらともとれる形相で、ずいぶん長い時間ここに鎮座しておられるようだ。もろい石に彫られたのだろうか、風雨に晒され顔かたちは崩れ、かなりの迫力である。
娘たちの散歩は、いつも姥さまで「はい、ここまで。帰ろう」となる。石の姥像を折り返し地点にして、橋を渡って川の反対側の棚田を下る。7歳の長女は途中で摘んできた野花を姥さまのひざ元に置いたりするのだが、5歳の次女は怖がって近づこうとしない。それでも僕は、休日になると娘たちと一緒に姥さまに会いに行きたくなる。

僕は奈良で育った。住んでいた社宅の近くに白毫寺という山寺があった。山門の軒下にアリジゴクが大きな巣を作るので、子どもの頃の遊び場のひとつだった。このお寺の本尊は運慶快慶派の仏師作とされる閻魔大王座像で、姥像と同じく眼光鋭く恐ろしかった。
母はよく「えんまさんが見てるよ!」と古典的なやり方で僕を叱ったが、街には実際に「えんまさん」がいたので、効果は絶大だった。いつも暮らしている場所よりも少し高いところ、山の中腹のお堂に昔から「えんまさん」はいて、僕らの行いをちゃんと見通している。そんな不思議な存在感を、少年時代の僕は想像と現実が折り重なった世界の片隅に置いて育ってきた。
そう、僕の中で「えんまさん」と「姥さま」は重なっているのだ。閻魔は地獄の主であり番人である。姥像も川の近くにあることが多いことから、三途の川の奪衣婆、あるいは女人禁制の山に登って石にされた女性宗教者であるなど諸説あるが、どちらもあの世とこの世の〈境〉にいる存在だ。
姥さまは、男だけが極楽往生できるとされていた江戸時代、女人往生の守護神として各地にひろまり、農村を中心に女性たちの信仰を集めたという。閻魔大王も実は地蔵菩薩の化身である。震災以降、僕は戒めと救いを同時に抱え込む、その姿に心ひかれている。
先日、妻と蔵王連峰の一つ、瀧山に登った。かつて山伏たちが開いたという古道にも小ぶりな姥像が鎮座していた。山形の霊山のあちこちに、さまざまな姿かたちをした姥さまが置かれているそうだ。
誰が彫ったのか、誰が祀ったのかも定かではないが、黙して語らぬ女人像が、里と山、あの世とこの世、自然と人間、男と女…2つの存在をつなぎとめている。心のなかに棲みついている「えんまさん」が僕を諭し戒めてくれるように「姥さま、姥さま、どうか妻と娘たちを守ってください」と手をあわせ、祈った。

瀧山を案内してくれた山伏の友人によると、この姥さまは3年前の地震のとき、据えられていた松の根本から山道を転げ落ちたそうだ。それを地元の人たちがもとの場所に担ぎ上げ、以来、赤い直垂や帽子をかぶせたりして、こまめにお世話しているという。千年に一度の大地震と大津波は、姥さまのような自然と人とをつなぐ信仰の恢復を、東北の各地にたくさん生み出しているだろう。
僕は震災後の石巻や南三陸で、「賽の河原」がほんとうに存在することを知った。大川小学校跡地では、津波で亡くなった子どもたちの遺族や弔問のために訪れた人々が置いていった無数の花束や風車やお地蔵さんに「三途の川」とはいかなる光景かを理解した。
「もののけ」とはモノが化けること。「ものがたり」とはモノが語ること。2つの異なる世界の〈境〉に置かれた、姥さまのような〈もの〉たちが、いま、里山や渚や、河のほとりで、本来の力を徐々に取り戻し、古い教訓や唄を発しはじめている。古くから伝えられてきた〈あの世〉の物語、あれはみな、すべて現実にあったことだったのだ。自然への畏怖や畏敬、逝ってしまった人々への哀切な想いから人間が生みだす神話的情景が、東北のそこかしこに、僕たちの記憶の奥底から蘇っている。

森のケモノたちもまた、〈境〉を超えて〈こちら〉にやってきている。先日、僕が務める東北芸術工科大学の敷地内をカモシカが闊歩していた。大学事務局から全学生と教職員に一斉送信されたメールは、ツキノワグマへの注意喚起だった。夜にはフクロウが鳴き、大学ちかくの鶏舎はオオワシに襲撃され、小屋のなかでパニックを起こした大量のニワトリが圧死した。
地区の年寄りたちは皆「こんなことはいままでなかったことだ」と口を揃える。餌になるブナなどの広葉樹が実をつけなかったり、中山間地集落の高齢化で狩猟圧が減ったことなど、原因は諸説あるが、ケモノたちの領土は確実に都市の際までひろがっている。
福島第一原発の10キロ圏内では、人間がいなくなった街で家畜が野生化し、一部の豚はイノシシと交配して増え続けているという。自然でも人工でもないケモノの国が、見えない放射能の〈境〉の内側で人知れず形づくられようとしているのだ。苔むした神像が転がり落ちて蘇り、熊やイノブタが路上を徘徊する世界の畔…。これが、僕が暮らす震災から3年後の東北だ。

〈境〉は、僕自身の内側にもある。僕は1974年に生まれた。バブル景気の恩恵を知らず、学生時代に神戸の震災と地下鉄サリン事件が起こり、日本経済の「失われた20年」とともに歩んできた。しかしそんなロストジェネレーション世代の物語は、東日本大震災でふっとんでしまった。街がドンと揺れ、電気が止まり、黒い波が樹々や車や家々をなぎ倒し、見えない放射能が降り注いでから、少なくとも僕は震災前の〈僕〉とはちがう人間になった。
震災後、東北の「いま」は常に未踏であり、迷路の途中であり、重い責任の連続である。あれから何日経った。何ヶ月経った。余震だ。半年経った。1年経った。月命日だ。風化だ。まだたった2年だ。余震だ…。積み上げていく一日一日で、精一杯だった日々から3年が経った。
ようやく時間の間尺は震災前の感覚に戻りはじめたものの、相変わらず震災後の「いま」は、千年に1度の津波や、放射性物質の半減期という、途方もない時間から照射された「いま」であり続けている。地震のすぐあと、原発が爆発する前に、僕は娘と妻を連れて山形を出るべきだったのかもしれない。いや、「いま」からだって遅くはないのかもしれない。もっと西へ南へと。
東北に暮らすおそらく数十万の家族が、同じような決断を迫られ、その結果もまたそれぞれの家族が背負っていくことになる。逝ってしまった人々への想像や追悼だけでなく、残った人々、逃れた人々の現在進行形の〈ものがたり〉もまた、〈境〉から生まれている。

さて、姥さまのいる山道からここまで書いてきて、やっと本展「1974年二生マレテ」についての、いま僕が語り得る数行へと辿り着いた。瀧山の森でも、南相馬の浜でもなく、群馬の美術館に並べられたアート作品との対峙。
けれども最早、ここまでの行間を巡ってくるあいだに、同い年生まれのアーティストたちがつくりだしたアート作品や、それらが属している〈世界〉は、僕にとって姥像や瓦礫や月山筍よりも、遠い場所になってしまっている。
南東北の盆地宇宙からやってきた僕は、同い年の君たちがつくりだした作品群に、どのようにコミットしたらよいのか分からない。かつてこの列島の生活者にとって〈世界〉が、盆地や谷や島や浜の数だけ、あるいは囲炉裏やかまどや仏間の数だけ存在したように、今年40才になった僕と君は、あまりにも隔たった各々の文脈を生きているようだ。

僕たちは震災でバラバラになってしまったのだ。地震直後の怒号、涙、逃走、沈黙、それらの突発的な連帯が過ぎ去ったあと、国民感情はフランケンシュタインの怪物のように収まる場所を失って暴れている。
選挙や反原発デモや戦争反対のプラカードでいくらつながっても、分断はますます広がり、縫い跡は醜い瘡蓋になっていく。だから僕は共同幻想を信じない。バラバラを受け入れる―― それは、あの忌まわしい震災の経験から僕が学んだ、大切な教訓のひとつだ。
しかし別の見方をすれば、世界はそもそもバラバラで、人知を超えているのだ。古い祭や儀礼や民話は、もともとそこにあったのではなく、不条理な自然災害や疫病や戦争のあと、その土地の人々が創った。自然への祈りや死者への鎮魂、同胞の繁栄のために。
〈こちら〉と〈あちら〉、2つの世界が隔絶すればするほど、〈境〉への想像力が切実に求められていくだろう。
だから僕は山を降りて、君たちが群馬県立近代美術館に置いていった、不思議な〈贈り物もの〉を子細に観察する。
「これはなんだろうか?」
「なぜここにあるのだろうか?」
「なんのためにつくられたのだろうか?」。
石でつくられた姥さまに問いかけるように、僕はアートを〈ものがたり〉はじめる。
(群馬県立近代美術館「1974」展カタログ寄稿/2014年)