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NOTE

書評/『反欲望の時代へ―大震災の惨禍を越えて』 山折哲雄+赤坂憲雄 著

東日本大震災発生から1週間後、元東北芸術工科大学教授の赤坂憲雄さんと電話で話した。安否確認が主なやりとりだったが、直後に僕がツイッターに投稿した内容がリツイートでひろがった—“赤坂憲雄先生と地震後はじめて電話がつながる。「いま各方面からコメントを求められているが言葉が見つからない。原発への怒りに満ちた東京を静観するよ」と。2011年3月17日16時26分15秒

批判の意図はなかったが、赤坂さんはこの「山形の若い仲間」による投稿に背中を押されたと、さまざまな場で語っている。以後、政府の復興構想会議などでの鋭い政策提言や文明批評に、「新章 東北学」の幕開けを確信したのは僕だけではないだろう。しかし、それでも本書の冒頭で赤坂さんは、「言葉がきちんと根を下ろして広がっていく気配が希薄だ」と書いた。また、対談相手の宗教学者・山折哲雄さんも、「宗教的言語でしか現実を表現できなかった」と語っている。

両者の対話は、虚ろな被災地の風景に、波切不動、有縁、美ら瘡、餓鬼草紙などの民俗世界を借景的に重ねることで、揺らいだ思考に血肉を与えていく。「板子一枚下は地獄」という、津波やシケによる死と隣り合わせで生きてきた漁民たちの人生観や、植民地としての〈東北〉の哀しみが浮かび上がる。高台移転やエコタウンなど、街全体をリ・デザインする巨視的な復興計画においても、渚に息づくこうした民俗知・精神史への傾聴は、東北再生の重要な寄り代になっていくだろう。

また、本書は対談中に触れられた寺田寅彦や宮沢賢治など、賢人たちの言葉を収めている。僕がひかれたのは佐々木喜善の「縁女綺聞より」だ。明治三陸大津波で妻を亡くした男が、初盆の夜、浜辺を歩いていて死んだはずの伴侶とすれ違う。ごく短い奇譚なのだが、あの日、凍える夜の静寂のなかでラジオやネットから流れてきた強烈な〈不在の気配〉が、ありありと蘇ってきた。

確かにいま、民話と現実はパラレルにつながっている。3.11から10ヶ月。いよいよ賽の河原のような被災地で、未来に放たれた言葉はまだ喃語のような不確かさで地表をさまよっている。かつて、この地球上の多くの神話のはじまりがそうであったように。(2012年1月/山形新聞)