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(集英社のファッション誌『SPUR』に連載中のアート欄より「諏訪敦|きみはうつくしい」の紹介コラムを転載)
ある女性とファインダー越しに見つめ合って、写真に撮り、プリントして壁に貼ったとしよう。そこに記録されているのは「撮る側」と「撮られる側」の視線の交差であり関係性である。写真のなかの彼女はいつまでも撮影者を見つめていて、ぼくたちはその関係の外側にいる。その瞬間に留まっているからなのか、写真は絵画に比べて、風化や忘却の運命に従順であるように思える。
対して、ダ・ビンチの「モナリザ」や、フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」は、同じように目の前にいる画家を見つめていたはずなのに、その眼差しは時空をこえ、2025年に生きるぼくたちにも向けられているように思える。
ルーブルで、マウリッツハイスで、「彼女たち」の前を無数の観客が通り過ぎていけばいくほど「こちら側」にいた画家たちの気配は溶解し、絵画=彼女はそれ自体の主体を獲得していく。ひとたび美術館の収蔵庫に入ってしまえば、それはほとんど不死にちかいのではないかとさえ思うのだ。当事者であった画家もモデルも現世には塵ほども残っていないのに…。
ひとの一生をはるかにこえた長い時の経過への耐性、むしろ、時が過ぎるほど強度を増していく絵画の魔術的な力は、生成AIによってあらゆるイメージが容易につくり出せるようになった近年、逆に存在感を高めているようだ。今回紹介する諏訪敦は、同時代の画家のなかでそうした魔術=絵画のもっとも優れた使い手の一人であり、東日本大震災以降は、戦争で亡くなった人々など「直接に見ることも会うこともできない」死後の人物に肉薄するリサーチ型の肖像画制作に注力してきた。
ぼくのキュレーションで開催中の「諏訪敦|きみはうつくしい」展は、この稀代の肖像画家のクロニクルを、83点の絵画と資料群で紹介する大規模なものだ。企画者として紹介したい作品は沢山あるが、なかでも夭折した青年を描いた《正しいものは美しい》(2017~2018)はぜひ会場で実物を見て欲しい。
今回はじめて外部で公開されるこの絵については、モデルとなった青年と依頼した遺族のプライバシーに配慮して詳細は書けないし、画像も載せられないのだが、まさに絵画の不死を感じさせてくれる傑作だと思う。
諏訪の絵画のなかで生き続ける青年の微笑は美しく、そしてあまりに哀しい。この悼みの共有もまた、ぼくたち人類が芸術に託してきた社会的機能の一つなのだ。